ソフトシリカ・ヒストリー

平成31年3月の本社移転をきっかけに、多くの資料を整理してきました。現在では法律の改正により、皆様が周知してくださっているソフトシリカ固有の効能を表記できず、眠らせてしまったものが山ほどあることが発覚しました。  

写真やデータとともに残されている各地の篤農家さまのお声・事実や驚き・実感など、また、創業時前後の研究成果・試験の記録や学会発表、評価などもあり、今後はそれらをまとめ、あらためて公表していく所存でございます。

変わらぬ地質品だからこそ、50〜60年前の事実が現代でも変わらぬ生きた価値で有る、と考えます。

決して、広告宣伝として喧伝するものではありません。

ソフトシリカを、早期から「本物の資材」と認識され、懇意にしていただいているお客様の事実の答えを、社業の記録として残していくべき責務と位置づけ、このコーナーを設けます。


ヒストリー No.3 (令和2年5月 記)

<ライブラリー>開設にあたって
この度新設の特設コーナー<ライブラリー>では、創業者 阪本 昇が会社設立前後並びに創成期の足跡を書き記した書籍土はよみがえると、昭和50年代に発行されていた『ソフト・シリカニュース』を、適時抜粋しながら公開してまいります。

『土はよみがえる』では創業当時の様子や想いを含め、八沢木の白い土「八沢木白土」の持つ効能・効果を目の当たりにしての感嘆や、手探りの販路開拓などの他、この先の後世にも遺すべきものが綴られています。
口を開けば、「『土はよみがえる』を、読めば解る…」と、幾度も言われました。”俺の言いたいことは全部ここに書いた!“と言いたかったのでしょう。苦しさを吐露しなかった潔さが伝わってきます。部分部分を時勢に合わせ抜粋しながらお届けしていきたいと思います。

今回は、九州の販売店様2件のエピソードです。当時の作物栽培は温暖な南寄りの地域で多様化しており圧倒的な作付けと収穫の量でした。台湾での実用成果を基に、台湾の気候に近い日本の地域で販路を確立したかったのでしょう。昭和40年代に奇遇なご縁をいただきました販売店様の絶大なご理解とご尽力により、販売体制が整っていきましたことが記されております。

『ソフト・シリカニュース』では、創刊号12号の抜粋をお届けします。

創刊号には、それぞれのお立場から専門の知識を駆使され発表しながら弊社をお支えいただいた先生方の中から御二方のメッセージが掲載されております。また新聞形式で発行に至るまでの気概が伝わる“ど根性”も併せてご覧ください。

第12号では、八沢木白土の製造工程を高め、更なる品質向上で得られた極粉末体の製品「リフレッシュ」を、作物の生理生態に合わせて収穫までカバーし続ける有効活用と共に、緊急救農資材として肥料や農薬の誤用時や、天候急変時の保護を目的とした実用面での応用などを紹介しており、これからの時期「リフレッシュ」の出番が多くなりますので、ご参考資料としてお役に立てればとの思いでピックアップいたしました。

弊社商品につきましては、当時と変わることなく同一資源同一製品を商品としてご提供しております。時代を経てさまざまな表現の規制がかかる中、当時表現できていた事柄が現代では不可となっているものも有りますので、<ライブラリー>のコーナーをご参考物としてお読みいただけましたら幸甚でございます。
今後、順次公開してまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

土はよみがえる抜粋(PDF)
『土はよみがえる』の中から、
九州での販路開拓の契機となる実録を公開!

ソフト・シリカニュース12号
粉体での効果が突出しているため
緊急救援の資材として援護していきます!

ソフト・シリカニュース創刊号
  ”不思議な白土“の特性や効能を学術知識として
現し支えていただきました

ヒストリー No.2 (令和元年12月 記)

熊谷翁との出会いと思い出

僅かな記憶を辿りながら、思い出すことの断片を紡ぎ、遡り切ると、そこは想い出に残る父の苦労話。。

秋田県八沢木村から産出される不思議な白い土を、貿易業務を担っていた父の会社が引き受けたのが1966(昭和41)年9月18日のこと…   『 土はよみがえる』(P. 44) に行き当たる。

父の台湾出張では2週間が当たり前で、学校から帰っても… 、朝 目覚めても… 、“大好きなお父さん” が何処にも見当たらず、寂しさを通り越していました。しかし、それがソフト・シリカ株式会社( 旧 新進貿易(株) )の出発点となり、ここから紛れもない社史・社実が刻まれていきます。

『 土はよみがえる 』では、その頃の父の奮闘の様子も詳しく書かれています。

一方、山を歩き土を見、沢に入り水を知り、地層を見い出し、鉱脈を発見する。

のちに、鴻之舞金山(北海道)発見した鉱山技師熊谷富治(1890〜1978年)氏。

院内銀山(秋田県)に入職以来、日本初となる鉱床をいくつも発見され、秋田鉱山専門学校(のち秋田大学)からお呼びがかかるほどに卓越した技術者でした。

日本中いたるところにさまざまな鉱脈があるものの、その探索ともなれば、ひたすら脚と勘を頼りに探し巡らなければならない労力は、並大抵なことではなく、山歩きの装備や食糧だけでも文化文明が発達した現代からは想像もつかないことです。

八沢木白土」は、そんな探索調査の帰途で偶然に発見されています。

それは、一日中歩きまわり下山に向かった帰路で、歩き疲れた脚を休めようと腰を下ろした大石の、傍を流れる水の音に誘われ、乾き切った喉を潤したそうです。

その時は、『 かなり良い土層を通ってきた水だな、』と記憶されたまま、時を経ています。

戦後の復興期に、大森町で陶石鉱床を発見され、続いて八沢木村のうまい水を再訪・確認・調査の結果は、これが日本で初めてとなるゼオライト鉱床の発見につながり、事業計画を立てられた履歴が弊社に残されております。

それは、冒頭の阪本昇との出逢いに繋がってまいります。

正確には、熊谷氏が自分で見つけたゼオライト鉱床を、活かすべく託した会社が、1963(昭和38)年に破産し、途方に暮れていた時に、裁判所が指名する破産管財人の弁護士の依頼に基づき、その八沢木ゼオライトの輸出業務を請け負っていた阪本と、東京銀座で対面しています。


初めての秋田県横手市【八沢木工場】

1970年、大学生となった私はアルバイトのお金を貯め、白い山(八沢木)を見に行きたいとおねだりして、その年の7月末、初めて秋田に入ることになりました。

秋田で製造部門を担当する会社が新進開発(株)、その代表取締役社長を鉱脈発見者の熊谷富治氏が担われていました。発足から4年が経過しています。

横手本社(当時の会社登記は横手市根岸町)でお目通りいただいた社長は、矍鑠としたご老人でした。背筋がピンと立ったお姿にとてつもなく緊張し、それはそれはとてつもない威厳を感じたことを記憶しております。

初めての横手入りでしたが、このときは工場の生産ラインでお手伝いをさせていただきながら、2週間お世話になりました。

一年でも一番暑い時期に、貯鉱場の原鉱石投入口近くに班長さんと一緒に座り込んで、両手に軍手で手斧を持ち、ソフトシリカやブロックシリコの原鉱石と格闘しました。

作業はとても楽しく、休憩も昼食も現場作業の工員さん達と一緒でした。

工員さんたちは地元(麓の集落)の方達ばかりで、ご主人が“出稼ぎ”で留守を守る奥さんやお母さんが働いていました。豪雪地帯でもありますが、どんな気象条件であろうと毎日徒歩で通われていました。また、当時は、一袋が25kg入りでしたが、年配の方は完成品を腰に載せて倉庫に運び、待ち受ける数少ない男性がその一袋づつを投げ上げるようにして積み上げていました。

パレット積みなどしない当時の作業は、“ 神技 ” とも見える離れ技でこなし、荷崩れひとつ起こさせませんでした。

熊谷社長はといえば、採掘現場に上がり、歩き廻り、山の様子を目視、原鉱石を確認したり、構内の作業を見守られ、場長に指示を出しておられました。

後に判ったことですが、構内の製造機械の要所々々には、故熊谷社長の考案・設計によるものが多く、現在も関係者が丁寧に扱い保持・保全に努めています。

アルバイトの身の私の出退社は、何故か社長の送迎車でのお相席でしたので、ムチャクチャ緊張したものです。。

そんな緊張から解かれた休みの日にもジッとしていられず、炎天下に自転車で出かけた隣り駅(後三年駅)の駅前食堂で、大張りきりの店主が、氷をギュッギュッと押しつけた山盛りかき氷に、真っ黄っ黄色になるまでシロップをかけてくれ、残しちゃ悪いと完食して、カラダが冷え冷えになったこと。駅に止まっている蒸気機関車に気がついて先回りした踏切では、地面にへばりつくようにして待ち続け、しゅっしゅっぽっぽと発車した今ここぞとばかりの真正面に対面したその時、、憧れの“キミ”は勢いよく蒸気を吐き、同時に黒煙を噴き出し、続いて大音量で誇らしげに汽笛を鳴らして、びっくりした私は折角のシャッターチャンスを逃してしまったこと。。

( 昨秋、横手駅での蒸気機関車SLこまち21号セレモニーに遭遇し、納得の映像を収めきりました。)

厳しいお顔の熊谷社長でしたが、『 ジンコ(?) も食べてけえ』とお誘いいただいた夕餉では、きっちり2合の晩酌を嗜むとても穏やかな好々爺でもありました。

どれも懐かしい思い出ですが、年配の方々の話し言葉(秋田弁)は、残念ながらとても理解不能で、戸惑うばかりでした。

早口にも聞こえる秋田弁も、分からないながらに三度聞き返して、やっと判った熊谷社長からいただいたメッセージは、今、この時、私の最も大切な「 ta・ka・ra・mo・no 」です (笑)。


ヒストリー No.1 (令和元年11月 記)

不思議な鉱脈の発見から、八沢木白土が救農資材となるまで

“不思議な鉱脈” が発見されて、まもなく100年が経とうとしています。

弊社が、八沢木白土の本格操業、製品製造、商品販売を手がけて以来、50年以上続く販売店様もおられ、長きに亘るご贔屓の元は、八沢木白土の変わらぬ成分と品質とともに、深いご理解と啓蒙に支えられてのことと理解し、深く感謝申し上げます。

世は、昭和の高度経済成長時代の折、農業従事者の作業負担軽減策と消費需要増による大量収穫の確保のために、配合飼料や化学肥料の使用が国土を隈なく踏破していました。

営農が否定され、天然・自然の有意さには見向きもされず、販売には苦慮したものでした。

1964年『沈黙の春』、1975年『複合汚染』が 世に投げかけた問題の深刻さは、国民が震え上がるほどのショックとなりました。

この社会現象を前後しながら、農業関係者の皆様からは、農地の疲弊や家畜の疾病報告が相次いでいました。原因を探りながらも困窮し、私どもに救いを求める内容の手紙や電話が届くほどになってもいました。

弊社では、それまでに積み上げてきた実績から、救農資材として役立つことを確信し、全面協力の体制で臨みました。


ソフトシリカの体験報告

それはやがて、東京から遠くと~く離れた田んぼや畑・畜舎や牧場などからも、ソフトシリカを与えたら…  

『こんなに良くなった! 』『こんな効果がある! 』

『ぜひ見に来てほしい ‼︎ 』など、多くのお声をいただくようになりました。

皆様からお寄せいただいた貴重な体験報告は、ソフトシリカの効果・効能にまつわる事実や実感として、千の用途を持つ粘土の1,000分の◯◯番目にはめ込まれるべきものですから、お客様には新進情報やソフトシリカニュースなどで随時お知らせすべきと心得、コピーに次ぐコピーや印刷物の増刷、発送に明け暮れした日もございました。

今後、このコーナーで皆様から寄せられた声をお伝えしていきますので、ご期待ください。

詳しい体験談はこちら